筆者の過去

ここでは少年院上がりの筆者がその過去の体験を書いています。
はじめに
チャリパク
イジメ
補導
先輩
教護院
トンコ
鑑別所か日生か
日生からトンコ
試験観察
閑話休題
逮捕
中等短期少年院送致
改心?
3度目の鑑別所
2度目の中等少年院送致
事故
シャバに戻る日
その後
あとがき
コンテンツ
はじめに

筆者は少年院上がりという過去を社会的にハンデと感じた事がないし、隠すつもりも
ない。しかし武勇伝とも思っていない。初対面あるいは見ず知らずの相手にわざわざ
暴露する様な事はしない。気心の知れた相手を選んで折りを見て「実は・・」と打ち明
ける程度である。したがってこれから書く内容は事実に基づいてはいるが筆者の都合
で意図的に歪曲した表現をしている部分もある事をあらかじめ書いておく。
チャリパク

チャリンコをパクる 〜 自転車ドロボウが初犯だったと記憶している。あるいは万引き
だったかもしれないしキセル乗車だったかもしれないが、その辺がきっかけである。も
ちろんタバコも吸った。親のカネをパクるのは常習だった。とにかく好奇心旺盛で遊び
たくて仕方がなかった。遊ぶにはカネがいる。異性や友人に対してエエカッコもした
かった。こんな自分が目醒めたのは小学校高学年の頃。中学に入ってからは、より
想いは強くなり、より行動的に大胆にエスカレートしていった。
イジメ

同じ時期に学校ではイジメられた経験とイジメた経験の両方がある。ひとりっ子の筆
者は人付き合いの要領を知らず、そのワガママぶりが原因でイジメられたんだろうと
解釈している。あるいはイジメられたと感じたのは単に筆者の被害妄想で実際は欠点
を指摘されていただけだったのかも知れない。とにかく筆者はその危機的状況を自ら
を変える事で解決した。つまりウワベの自分を取り繕う術を覚えたのである。そして気
がついたら(実際には気がついたわけではないが)イジメる側にまわっていたのだ。
本質的には何も解決していない事になど気がつくはずもないし目先の危険を回避でき
ればそれでよかったのだ。そして本能的に周囲を威嚇する様になっていった。
補導

何回されたか憶えていないが一時期しょっちゅう補導されていた記憶がある。万引き
やチャリパクの類いである。とにかくドンクサかったのである。当初は逃げるという事
をほとんどしなかった(というか逃げ方を知らなかった)のだ。そして何回か許されてい
くうちにますます世間を甘く見るようになっていった。どんどん悪質な方向へエスカレー
トしていったのである。その頃(中学2年くらい)には学校にはまったく行かなくなった。
親には暴力で対抗するし教師とは顔すら合わせなかったのでやりたい放題だった。
チャリパクだったのがバイクやクルマになっていきタバコだったのがドラッグになって
いった。オンナを知ったのもその頃だ。周囲を威嚇し暴力という単純明快な解決法を
見つけた筆者がカツアゲを収入源に選んだのは言うまでもない。
先輩

エスカレートしていった陰には先輩の影響も大きい。クルマのパクり方やポリからの逃
げ方なども先輩からの入れ知恵だ。ドラッグもそうだしオンナの口説き方もそう。もち
ろんひとりの先輩ではない。自然とそういう先輩や仲間が増えていき互いに情報交換
しあっていた。その中にいると凶悪であればある程ヒーローになれる。そしてますます
エスカレートしていった。
教護院

一般には馴染みのないコトバかもしれない。今はどうか知らないが当時は義務教育
中の素行不良者は基本的には教護院という更正施設で矯正教育を受ける。もちろん
事件の規模によっては義務教育中であっても少年院に送致されるしその逆もある(筆
者は両方のパターンの例外を実際に知っている)。歯止めのきかなくなった筆者は家
出先の繁華街で最後の補導をされた。何をしたわけではない。夜間徘徊とかそんな
類いだ。もちろんタバコは所持していたがドラッグや盗品の類いは所持していなかっ
たし手配されていたわけでもなかったので犯罪ではなく純粋に補導されただけだ。す
ぐに解放される事を信じて名前や連絡先を正直に告げる。当然親が迎えにくる。そし
て元通りの生活に戻るはずだった。ところが児童相談所に連れていかれた。未だにこ
の児相というものがどういう場所なのか把握できていないのだが社会的に問題のある
児童を預かる施設といった所か。なんだか保育所みたいな雰囲気でもあり当然鉄格
子もなくすごく場違いな印象を受けたのを憶えている。逃げようと思えばいつでも逃げ
られたが自分の置かれた立場がいまいちよくわからず、それを担当者に問いただし
もせずになんとなく数週間を児相で過ごした。

ある朝迎えが来た。どうやらどこかの施設に連れていくつもりらしい。ほとんど説明の
ないまま連れて来られたのが教護院だった。ここで筆者は中学卒業までの1年余を
過ごす事になってしまったのだ。

教護院での生活は規則正しい。朝6時起床でマラソンや畑仕事をし、勉強をし、夕方
もマラソンや畑仕事などをしてまた勉強をして就寝は10時頃だったか。日曜日などは
多少余裕もあったが、こんな生活が夏も冬も雨の日も続いた。5人から10人くらいが
共同生活をする寮が5〜6コはあったか。オンナもいた(もちろん女子寮に)。小学生
の時から何年もいるヤツもいたがほとんどは中学でグレたヤツらだった。鉄格子など
はない。いつでも逃げれるという環境がかえって精神的に余裕をもたらせていたのか
もしれない。話題は常にシャバでの過去と未来。ここでも互いに情報交換し悪知恵を
蓄えていったのだ。
トンコ

語源はよく知らないが逃げる事である。教護院ではしょっちゅうトンコするヤツがい
る。大体が地元に帰って連れと遊んでタバコ吸ってパチキ入れて(ソリコミ)眉毛剃って
2〜3日で捕まって帰って来る。パクられたまま新聞に載って2度と帰って来る事のな
いヤツも、たま〜にいたが。鉄格子がないんだから逃げ放題である。しかし逃げ切れ
たヤツはいない。所詮中学生。逃走資金も無しに逃げ切れるわけがない。

ネコをかぶる術を心得ていた筆者は刑務所でいう所の模範囚だったわけだがそれは
当然見返りを期待しての事である。つまり1日も早くシャバに出る事。トンコの誘いは
何度もあったがずっと断ってきていた。しかし夏が過ぎ年を越しても自由になれる気
配もなくネコをかぶってるのがアホらしくなってきて遂にトンコした。真冬の深夜に寮の
窓から。ダッシュで街までの数キロを駆け降りた。そして始発キセルで地元へ帰った。
鑑別所か日生か

数日でポリに捕まった。よく憶えていないが直接の罪はバイクの窃盗か引ったくりか
その辺だったと思う。しかし逮捕ではなかった。詳細は憶えていないがその時「鑑別
所へ行く」か「教護院へ戻って日生へ行く」かの選択肢があったように記憶している。
日生とは法的にはシャバだが実際の姿は少年院的な全寮制の高等学校である。筆
者が迷わず日生を選んだのは言うまでもない。法的にはシャバなのだから何をしよう
が自由だからである。トンコしたにもかかわらず春からは自由の身なのである。
日生からトンコ

起床は朝4時である。ここの必携アイテムは乾いた雑巾。これで床から便所から何で
も磨く。「自分の心を磨け」という事らしい。体育館に何百人が一同に会して床磨きを
している様は一種異様な一体感がありライブハウスの客や新興宗教の信者を連想さ
せる。野外ゴアパーティーの明け方という表現でもいい。異様なオーラがそこに存在し
た。どんなにしんどくても「ここはシャバ」という事実が安らぎをもたらしてくれたが、そう
長くは続かなかった。

考えてみれば鑑別所の拘束期間はせいぜい1カ月である。それに比べ日生は3年。
どう考えても計算が合わない。結局トンコする事にした。もちろん自主退学を主張する
権利はあったのだろうが段取りが面倒くさい。思いたったら今すぐ自由になりたかっ
た。日生も山の中にあり徒歩で街に降りるのはしんどい。そこで仮病を使い街の医者
に行きスキを見てトンコした。ここから地元までは遠いが何とかキセルで辿り着いた。
試験観察

在籍わずか1カ月で日生を正式に退学した後地元でふらふら遊んでいた。特にヘタ
打つ様な事はしていなかったが教護院をトンコした際の後始末で家裁に呼び出され、
のこのこ顔を出したらそのまま鑑別所送りとなった。どうも釈然としなかった。いっつも
そうである。ヘタ打ってパクられた直後に拘束されるならまだ納得もいくが、いつも忘
れた頃に拘束される。正直言ってビビっていた。少年院にもビビっていたが鑑別所に
対してもかなり恐怖があった。「とうとう一線を越えたなあ」とぼんやり考えていた。

鑑別所も当然規則正しい生活を強いられる。ここには鉄格子がある。一度も逮捕され
ないまま、補導歴だけで手錠腰縄でここまで連れてこられたのである。犯罪者を初め
て自覚したのはこの時かも知れない。入所当初の3日ほどは考査期間といって個室
(独房)で色々な適性テストなどを受けたりする。考査期間が終わると集団部屋に降ろ
される。規則正しい生活だが肉体労働などはない。拘置所と似た様な待遇である。教
護院やポリ署の保護房はたぶんギンシャリだったと思うのでここで初めてバクシャリを
食べた事になる。

集団部屋は3人から5人くらいづつが割り振られ全部で何部屋あって現在何人収容さ
れているのかはよくわからない。ざっと見た感じでは集団部屋が20、個室が30くらい
といった所か。原則的に私語厳禁ではあるが相変わらずシャバでの過去と未来に話
題の花が咲いていた。そしてこういう場所で語られる武勇伝のほとんどがハッタリや
デタラメという事にも気付かず割と真剣に耳を傾けていた記憶がある。

筆者の知る限り鑑別所の拘束期限は最長28日間である。その間に必要な検査や調
査・面接・観察などを終了し家裁で審判となる。筆者は少年院送致に対して非常に恐
怖を抱いていたが結果は試験観察だった。詳細はよく憶えていないが保護観察より
は厳しい処分である。とはいえ、自由の身になれたのは確かなようだ。
閑話休題

ここに至るまでに筆者の親のエピソードはほとんど出てこない。一体どんな家庭環境
だったのか。筆者の印象では、親は筆者を更正させる為に必死だったと思う。しかし
それは筆者が自らの意志で暴力により断ち切った。とにかく親に干渉されるのが何よ
りもうっとうしかったのである。恐らく筆者が目醒めてしまった時点で時すでに遅く、も
う手の施しようがなかったのではないか。もし親に落ち度があるとすれば筆者が物心
つくかつかないかの頃の躾だったのかもしれない。しかし、そんな事で親を責める気
は毛頭ないし何の後悔もない。そもそも「親のせいでこんな自分になった」と思った事
など一度も無い。「親がカネをくれないのなら自力でなんとかしたる」とは思ったが「親
がカネをくれないから万引きした」という発想をした事は一度も無い。親は自分の欲求
を満たすために助けを求める手段のひとつではあったが、親がダメなら次の手を考え
るまでである。あるいはガマンするか。いずれにしてもすべては自分の意志で決断し
た事である。したがって後悔はないし親に責任も求めない。

ここまで一気に書いてみて「愛情の無い家庭に育ったんだなあ」と客観的に見ている
もうひとりの筆者がいる。それは事実かもしれない。いや厳密には「愛情が無かった」
のではなく「親の愛情が子の心の奥底に伝わらなかった」んだと解釈している。

「親のせいでこんな自分になった」と思った事など一度も無いと書いたが、現実には今
の筆者が親の影響によって作られたのは紛れもない事実である。しかしある時点で
筆者のイニシアチブは筆者自身に移ったのである。その時点ですべての責任は筆者
自身にある。当時の筆者は本能的にそれを感じていたのだと思う。
逮捕

保護観察でさえも1回ヘタ打てば確実に少年院送致である。少なくとも筆者はそう認
識していた。それが試験観察である。本当に少年院送致を恐れるならばマジメに生活
態度を改めるべきである。いや、ヘタな濡れ衣で巻き添え食わないために以前の仲
間とも手を切るべきなのである。これは今現在の筆者がオトナの発想で書いている事
である。しかし当時の筆者はまったくそんな発想はしなかった。「今が楽しければい
い」「何とかなる」この基本的な考え方は今も昔もまったく変わっていない。しかし現在
の筆者は経験から色々と学習した。もし今ベントウ(執行猶予)持ちならば絶対に法を
犯すようなマネはしないだろう。何故なら刑務所が恐いからである。単純な理由だ。

生活態度を改めるどころか鑑別所で充電した事によりさらなるパワーアップを遂げて
シャバに戻ってきた筆者の悪行はとどまる所を知らない。さすがの悪友達も「今はヤ
バイからやめとけ」と止めてくれたが「こんな事でイモひいてたまるか」と聞く耳持たず
遂にクルマの窃盗で逮捕となった。
中等短期少年院送致

通常逮捕されると「ヨンパチ食らう」といって48時間ポリ署に泊まる事になる。オトナ
の場合はその間に勾留請求されて20日勾留打たれて起訴されれば拘置所行きとな
り保釈金が用意出来ない場合は判決出るまでの2〜3カ月くらい拘置所生活を強いら
れる。貧乏人は国選の先生に弁護をお願いするしかない。アダルトCD-ROMで稼い
だヤツが私選を3人もつけていたが同じ罪で国選1人だったヤツとまったく同じ判決
だった。金で判決は左右されないという好例か。もちろんもっと巨額を投入すればどう
なるかは知らないがこの程度の事件なら国選のままで十分という事だろう。もちろん
資産チェックは受けるが貯金なし借金ありと言っておけばいい。保釈金の出所は知人
から借りる事にしておけばいい。裁判費用の請求にも泣き言を綴っておけば支払わ
なくて済む。話しを元に戻そう。

少年の場合は余程込み入った事件でも無い限りは逮捕翌日には鑑別所送りとなり
28日で審判となる。今は知らないが当時の鑑別所は拘置所と違って制服が貸与され
私服は着用出来ない。審判で家裁に行く時はまず鑑別所を出る手続きをし私服に着
替える。後は少年院かシャバか。審判後鑑別所に戻ってくる事はほとんどない。

今回は覚悟を決めていたのでネコかぶる様な事もしなかった。恐かったが、みっとも
ないマネをするわけにもいかないので堂々として行った。必要以上に堂々としてやっ
たかもしれない。それは周囲を威嚇する様な態度で、かえってみっともなかったかもし
れないが。

中等短期少年院送致。記憶が定かではないが早くて100日前後、遅くて140日あれ
ば仮退院できるコースだ。教護院で1年以上経験のあった筆者にとっては正にション
ベンだ。少年院という未知の脅威に威圧されながらも内心ホッとしている面もあった。
実刑3年でもションベン刑というみたいだがどんなにションベンでも中で年を越すのは
虚しいものだ。ましてや1999年から2000年になる瞬間を中で迎える事になっては
それこそ一生の不覚と感じるのは筆者だけだろうか。

後述するが筆者には中等長期少年院の経験もある。印象は長期の方が圧倒的に強
い。その為か短期の方はほとんど憶えていない。同じ敷地内に交通少年院があり全
員が少年院初体験組。しかも古いといっても3カ月先輩という程度。全員同期みたい
な感じでなあなあで拍子抜けしたのを憶えている。さらに古顔のひとりがシャバでの連
れだった事も手伝って合宿所の様な雰囲気のまま期間を過ごしシャバに戻った。
改心?

僅か数カ月の合宿所生活とはいえ少年院は少年院である。精神的ダメージは相当な
ものであったと記憶している。特に逮捕されてから少年院の生活に慣れるまでの間は
不安と緊張の連続で相当なストレスだったであろう。今回ばかりは身にしみて懲りた
はずである。

しかし人間の本質などそう簡単に変わるものではない。度重なる補導や逮捕・教護
院・鑑別所・少年院などの体験経験をもってしても本質はまったく変わっていない。反
省などしていないのだ。カツアゲの被害者に対して、バイクやクルマの持ち主に対し
て、これっぽっちも「申し訳ない」という気持ちがないのだ。もちろん鑑別所や少年院で
の作文や反省文にはお詫びの気持ちを赤裸々に綴った。しかしそれは許してもらうた
めの手段であって決して本心ではなかった。ボケたらツッコミ入れる様にパクられたら
謝るだけの事だったのだ。しかしそれはそれで問題解決の方弁としてはアリだろう。

本当の問題は「パクられない」事にあった。2度と少年院はゴメンだ、と切実に感じて
いた。オトナの思考回路で答えを出せば簡単だ。法を犯さなければいいだけの事だ。
日本の国民1億人が守れている法律を筆者が守れないわけがない。しかし当時の筆
者は「パクられない」事にこだわった。「自分のスタイルを変えずに要領よくやる」事に
意義があった。

いつの間にかクルマをパクりドラッグを楽しむのがライフスタイル・ステータスとなって
いた。この生活水準は守らねばならない。これを変えるわけにはいかない。オトナに
は理解不能な価値観がそこにあった。社会的に非常に危険な価値観が筆者の中に
根付いていた。ドラッグはまだいい。人に迷惑さえかけなければ。自分で働いた金で
ほんのひととき夢を見るのはアリかもしれない。しかし人に迷惑をかけても平気でいら
れる事が本質的に間違っている、という事に当時はまったく気付いていなかった。
3度目の鑑別所

今回はわりと長い間シャバにいた。もちろん本人はパクられるつもりなどないわけだ
が運が良かっただけだろう。なんとか凌いでいた。なんとなく要領よくやるコツみたい
なものが見えてきた気がしていたがそれは大きな勘違いだった。職質で所持品の中
からドラッグが出てきて現行犯逮捕となった。なんとドンクサいヤツだ。今ならこんな
ヘタ打ち考えられん。

見慣れた風景での3度目の生活がはじまった。審判の後に待っている少年院は恐
かったが鑑別所ではさすがに余裕だった。何しろ短期とはいえ年少上がりである。
そこそこ大物ぶってもたいていのヤツには通用したので楽だった。
2度目の中等少年院送致

成人してからも1度逮捕されているがこれは初犯という事でベントウで済んだ。更正施
設での生活はこの2度目の中等長期少年院送致で最後だ。このままズルズル行けば
特少・少刑と待っていたのだがなんとか断ち切る事が出来た。

ここでの生活はイメージ通りの少年院らしい緊張感のあるものだった。タチの悪いのも多く ケンカも絶えない。例によって新入りは考査期間を経て新入寮でのスケジュールをこなす。 一定期間を過ぎると一般寮に降ろされる。2度目という事もありある程度舐めてかかって いたのだが通用しなかった。完璧なタテ社会だったのである。

短期もそうだったかも知れないがココでは成績が明確な点数となってフィードバックさ
れる。毎月点数が加算されていき合計点数が目標に達成すれば仮退院となるのだ。
そして点数によって4つにランク分けされている。具体的には新入寮生は2級下。
一般寮生は2級上と1級下。1級上に進級すれば信任寮に移り待遇も良くなり仮退院
に備えるのである。

余程の問題児でもない限りは通常はそれほど点数に差は出ない。つまり、多くの場合
1級生は2級生よりも強い立場である。一般寮へ降りてから1級に進級するまでの数
カ月が色んな意味でココでの下積み期間といえる。普通にしていれば毎月3点もらえ
る。30点くらいで出院準備寮(信任寮)へ移れたので成績優秀者は1年以内でシャバ
に戻れる。しかし集団寮である一般寮で無事故で過ごすのはなかなか難しい。事故に
も色々あるがケンカや喫煙、玉入れ、刺青などだろうか。

面会時などにうまくタバコを入手できる時がある。タバコの方はみんなに分配できるが
火の方はなかなか回ってこない場合がある(もちろん誰かが持っているのだろうが)。
そんな時はエンピツとチリ紙で手軽に火を作れる。どんな方法か想像つくだろうか?
答えはいたって単純、2本のエンピツの芯をコンセントの+と−に挿入しショートさせ
その火花をチリ紙に引火させるだけである。危険だからマネしないように :)
事故

少年院でいう事故とは規則違反である。タバコなどをイチビって吸ってるとあっという
間に対象者10数人の大規模な事故になってしまう。通常事故を起こすと布団など身
の回りの荷物をまとめて独房入りとなり「調査」の札になる。その結果謹慎10日とか
になるのだがその月の点数はまず1点は確実である。繰り返し何度も謹慎食らってい
るとシャバに戻るのに2年近くかかる場合もある。実際筆者は1年半くらいかかったよ
うに記憶している。
シャバに戻る日

色々あった少年院生活だが何をやっても刑法にさえ抵触しなければ事故を起こしても
減点される事はなく確実に点を稼ぎ進級していった。正直いうと開き直っていた面が
多々あり少年院の中ですら問題児であったように記憶している。この時点でもなお、
本質的な反省はなく、ただ悪友と悪知恵を蓄積していただけだったのである。仮退院
の朝は全院生の前で挨拶文を読み院長から仮退院許可証なるものを受け取る儀式
があるのだが、挨拶文の内容に問題があるとしてこの儀式は行われず、挨拶無しの
まま少年院を後にした。今思い起こしてもタチの悪いヒネクレ者だった事は認めざる
を得ない。
その後

度重なる逮捕や収容生活にもかかわらず、反省もしなければ本質的な改善も成され
なかった筆者はこの経験から何を学んだのか。今現在当時を思い起こしつつ、この
文章を打ち込んでいても明確な答えは見つからない。成人してからも1度逮捕されて
いるがこれは明らかに当時とは異質の法律違反であり具体的内容は伏せるが人に
迷惑はかけていない。そう、現在では少なくとも人に迷惑の及ぶ行為には抵抗を覚え
ている。何が筆者の価値観を変えたのか筆者自身よくわからないが、おそらく社会生
活の中で色々な人とのふれあいの中でごく自然に変わってきたのだ、としか言いよう
がない。とにかく筆者は自分のライフスタイルを自らの意志で変えたのである。

学歴社会の日本で高校中退の少年院上がりという過去は非常に不利なものかもしれ
ない。雇う側にしてみれば新規雇用はバクチ同然である。同じバクチなら勝つ可能性
のある方に賭けるのが当然でその目安となるデータは学歴しかない。客観的に見れ
ば、やはり筆者は社会的なハンデを負っているのかもしれない。しかし筆者自身はそ
んな事を考えた事もないし実感した事もない。一流有名企業とはいわないがサラリー
マンもしたし大学出てる友人にパソコンを教える事もたびたびある。ココでは本当に書
けないが芸能マスコミ関係でそれなりに良いシゴトをした経験もある。高校中退の少
年院上がりというハンデで切り捨てざるを得ない選択肢もあるがエリートコースを歩ん
できた人間にも無限大の選択肢があるわけではなく限られた選択肢しかない。

価値観は人それぞれ千差万別である。それぞれの立場と視点で何かを感じていただ
ければ、この「筆者の過去」の役目は十分果たせたと解釈している。
あとがき

今改めてこの「筆者の過去」を読み返してみるとコトバの表現として矛盾している箇所
がいくつかあり適切な表現に修正した。まだ矛盾が残っているかもしれないがおそらく
筆者の中に矛盾する別々の感性が同居しているのであろう。これら矛盾も含めた
すべてが筆者であるとご理解いただければ幸いである。
コンテンツ

筆者の過去
学校
イジメ
少年犯罪
自殺
掲示板
たかが少年院 〜 タイトルロゴ(GIFアニメ)